聖域への入り口 中門
法隆寺には二つの門があります。
お寺の総合入口に当たる「南大門」と、仏様の世界への入口「中門」。
中門は別名“仏門”。
つまりこの先、伽藍内部は人間が入ることを許されない聖域だったわけです。
今から1300年前、飛鳥時代に造られたこの中門。
さてこの門を見たとき、まず気付くのは左右にいる二体の仏像です。
金剛力士像。
お寺の門番ですね。
向かって右側の阿形(あぎょう)。
711年に造られてから一度も来壊れていない、日本最古クラスの土の仏像です。
向かって左側は吽形(うんぎょう)。
阿形と同じく711年に造られましたが、途中で中の土が腐敗。
十六世紀に大幅改修され、今は顔以外が木に作り替えられています。
筋肉の動きや足元の血管など、この時代には珍しいかなり写実的な仏像。
ただの金剛力士と侮るなかれ。
法隆寺随一の鑑賞スポットです。
続いて、チケットを購入して中に入ると…
中門の裏側も要チェックです。
大きな柱が何本も立っていますが、これももちろん飛鳥時代。
1300年前から立ってると思うと、かなり感慨深いです。
ちなみに、写真右の柱をご覧ください。
なんか継ぎ接ぎみたいになっているのが分かりますか?
これは修復の後。
腐った部分だけくり抜いて、新しい木を当てたわけですね。
よく「法隆寺は大きな戦火に会わなかったから残ったんだ!」と言っている方を見ます。
それももちろん理由の一つですが、個人的にはどの時代でも必ず修繕し見守る人々がいてくれたことが凄い。
世界最古の木造建築群と言うように、腐りやすい木造でこれほど長く残っているのは世界でも法隆寺だけ。
様々な時代の木々が埋め込まれた柱を見る度、私は1300年の人々の想いをビシビシ感じます。
さてこの柱、もっとジーっと見てください。
普通の柱の形が違うのがわかりますか?
上と下が細くて、真ん中だけふっくらしています。
これはエンタシスの柱。
「なんで横文字やねん!」
当然の疑問です。
実はこの“エンタシス”はギリシャ用語。
古代ギリシャの柱も、同じような形になっていると思いませんか。
こちらはパルテノン神殿。
つまり古代ギリシャの建築様式が、名前の由来なわけですね。
この“エンタシス”。
学校で習ったという方も多いかと思います。
昔の教科書にはこう書かれていました。
『ギリシャからシルクロードを経由して伝わった建築様式である』
みたいな感じ。
理にかなっています。
確かにそれなら説明がつきます。
でも最近は少し違います。
教科書は日々変わるわけですね。
ギリシャからシルクロードを経由してやってきたと考えられていたこの文化。
しかし不思議なことに、途中地点のモンゴルや中国にこの文化は見られません。
シルクロードの中間地点はガン飛ばしで、いきなりギリシャと日本で出てきたわけですね。
つまりこの柱は日本オリジナル。
エンタシスに“形が似た”日本独自の文化です。
これが今の定説。
だから名前も日本語で『銅張りの柱』と表記されることも多いそうです。
法隆寺や奈良のお寺を散策していて
「あっ!エンタシスだ!」
となったら、それはめちゃくちゃ古い建物だと思うとわかりやすいですね。
法隆寺の玄関 南大門
美しい松並木を抜けると見えてくる法隆寺の玄関、南大門。
大陸から様々な文化や技術がやってきた飛鳥時代。
当時寺院の建築技術や考え方も、この大陸文化が大きく影響してきます。
その一つがこの“南大門”。
お寺に行った時のことを考えてみてください。
お寺には色々な門がありますが、入口はいつも南大門じゃありませんか?
西大門や東大門も存在しますが、入口はなぜか南大門。
これは、仏様は北に座っているという仏教のルールがあるからです。
仏様が北にいるから、その真正面に当たる南に正門を置く。
特にこれは、古くからあるお寺では絶対のルールです。
南大門の奥を覗くと、さらにもう一つ門が見えるのがわかります。
この門は“中門”。
古代のお寺はこのように正門が二つあることが多いです。
「なんで二つも門があるの?」
これは目的が違うからですね。
南大門は別名『僧門』。
名前の通り、僧侶だけが入ることを許された門。
昔は境内に一般人が入ることが許されていなかったからですね。
奥にある中門は別名『仏門』。
つまり、寺の僧侶ですら入れない仏様専用の門という意味です。
僧侶しか入れない境内、仏様しか入れない伽藍内を、門によって区別していた。
つまり現代でいうところの、玄関を二つ作った二世帯住宅みたいな感じですね。
飛鳥時代のイメージが強い法隆寺ですが、南大門は“室町時代”の建物。
元々あった昔の門は、1435年に焼失しました。
僧侶同士の派閥争いだったと言われています。
さてこの南大門。
入る前に石段の下を見てみましょう。
えぇ、どう見ても不自然です。
キレイに敷き詰められた石を分断するように埋め込まれたこの石。
“鯛石(たいいし)”と言います。
どうですか、右が頭で左が尾っぽ。
言われてみたらなんとなく魚の形に見えませんか?
この鯛石には、ある伝説があります。
その昔、大雨で近くの大和川が氾濫を起こしました。
そしてその水はこの南大門の辺りまで来て、このままだと境内に…。
しかしそこで水はピタッと止まり、そのままサーっと引いていったそうです。
不思議な話ですね。
そして水が引いた後、石段の前にピチャピチャ跳ねる一匹の鯛が…。
うん。
川に鯛がいる謎が霞むぐらい、突っ込みどころ満載です。
この『鯛石』は、法隆寺七不思議のひとつです。
残りの六つは全て境内。
では、境内に入っていきましょう。
松並木の参道
300m続く松並木
法隆寺に参拝する際、どんな交通手段で向かっても間違いなく通る場所。
それが参道の松並木です。
南大門までの約300m。
ひたすら続く美しい一直線の並木道は、法隆寺の玄関口としてふさわしい壮観な光景ですね。
この並木道の両脇にはお土産物屋や食事処が点在し、昔から多くの参拝者で賑わっています。
さて参道沿いにはたくさんの松が植えられていますが、実はこれ、参道だけではありません。
法隆寺は、境内にもたくさん松が植えられているのです。
聖徳太子と松には深い繋がりがあるのですね。
聖徳太子と松
太子三歳の時の伝説です。
両親とともに近くの桃園を散歩していた時、父の用明天皇が太子に何げなく聞いたそうです。
「お前は桃の木と松の木どちらが好きか?」
すると太子は
「桃の木はひと時しか花を咲かさないが、松は年中青々としていてキレイだ。だから私は松がいい。」
三歳ですよ。
うちも娘が今三歳ですが、そんなこと急に喋りだしたら恐怖しかありません。
この伝説を知っていた御嵯峨(ごさが)上皇が、1261年に松並木の参道を造らせたそうです。
参道の入口はどこ?
国道25号線から参道に入る際には『聖徳宗総本山 法隆寺』と書かれた立派な石碑を見つけるはずです。
ほぼ誰もが参道の入り口だと思っているこの場所。
実はここはまだ入り口ではありません。
後ろを振り返ってみます。
どうですか。
後ろにも松並木が続いていることがわかると思います。
100mほど歩いていくと…
ありました。
これが本来の参道入口。
これは、本来は450mほどあった松並木の参道が、昭和16年に国道整備の為分断されたため。
真ん中を国道がぶった切っているのでわかりにくいですが、昔はここがスタートだったわけですね。
知っていると通りたくなる、法隆寺の参道でした。
世界最古の木造建築群『法隆寺』
奈良といえば…
他府県の方に「奈良といえば?」と聞くと、
「鹿!」
「大仏!!」
と大半の方が自信満々に答えてくださいます。
間違ってない。
めちゃくちゃ正解。
でも奈良が“鹿と大仏だけ”だと思ったら大間違い。
素晴らしい歴史や景観が至る所に点在する、ワクワク間違いなしの観光県なのです。
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